2007年7月15日日曜日

成果主義ってなんだか説明できますか?

突然ですが、「成果主義ってなんですか?」と聞かれて正しく説明できる人はどれくらいいるでしょうか?という疑問を持ってしまったりする。白状をすると私も半年前までは完全なる勘違いをしていた。成果主義で有名(悪名?)になった某F社に昔つとめていたが、あそこで言っている「成果主義」って、多種異なる主義を寄せ集めた呉越同船な趣を今更になり感じている。

====評価システムとは?
成果主義は企業(組織)において人の評価をする仕組みである。人材の評価の目的は、業務の査定およびフィードバックを行い、このある意味の利益操縦ににより、組織における望ましい思想・行動を推奨することである。最終的な目的は、企業(組織)がもつ理念・価値観・戦略に、個人のモチベーションをあわせていくことになる。

====評価システムの種類
現在、評価システムは大きく分けて3つの方法がある。「能力主義」「成果主義」「実績主義」である。

・能力主義
のっけから質問ですが「能力」とはなにか?「職務を遂行するために必要、有用となる知識・技術・姿勢」と定義されるようである。
日本で昔から用いられてきた「年功序列」は一応このシステムに分類されることになる。ただし前提があり、「年齢や経験により永続的に人の能力が高まっていく」という思想に基づいている。確かに1年目の新人は5年目、10年目のベテランに比べると良い仕事はできないでしょうから、このあたりでは間違いはない。しかし15年目と20年目くらいになると、普通はそこに1年目と5年目ほどに大きな差を見いだすことは難しい。むしろ個人の資質の差の方が大きい。このあたりが年功序列の不公平感があるようである。

その不公平感をなくそうとするために、「資格」「検定」というものを用いて公平に「能力」を査定しようとしだした。資格報酬や企業内の検定である「職級」などである。これに問題があり、同じ「資格」の中でもその能力の差は大きいし、実際問題として「資格」の有無が「能力」の有無につながるともいいきれない」。人の目を介して評価する「職級」ならばと思うが、評価する人間により「能力」の差も出るし、評価の目が本当の意味での「客観」であることは少ないし難しい。これはある意味、評価する人間に対して全知全能の神的な能力を求めて鋳る側面もあるようである。

・成果主義・実績主義
この2つは外面似ているが、根本にある思想は全く違ったものである。しかし別々に説明することは難しいので、1つにまとめて説明をする。
簡単に差を説明する。実績とは業務遂行の結果であり「何をやったか(what)」である。一方、成果は+アルファ方法論も加わり「何をどうやったか(what+how)である。
例えば実績主義の場合、出来高・売上高のみで評価をする。客観的・定量的な物差しのみで結果のみで評価を行う非常にドライな制度である。実績を上げるための手段や経路は全く問わない、ある意味では公平性が非常に高い。しかし自分には全く関係のない要素(天災や為替変動、社会制度の変化など)により結果がでなかった場合、これは全く考慮されない。「実績でなかったんだよね。じゃあ、評価できないね」で終わりである。

成果主義では「実績遂行の過程と結果」が評価の対象となる。結果のみならず、そこに至る方法、環境、思考、倫理性、社会性までも考慮の対象となる。また企業のもつ理念・価値観・戦略にあった行動であるかということも評価の対象となりうる。例えば部下を馬車馬のように働かせて、営業成績を上げた管理職が評価されるか?実績主義であれば評価される。これは実績を上げているからである。成果主義の場合はどうか?非常に難しい。なぜならこの上司の行動は倫理性、社会性に反しているからであり、部下の働く環境や思考することも犯していると判断されることもあるからである。

成果主義が運営が非常に難しいと思う。なぜなら評価の対象に客観的な要素が多いからである。実績主義であれば、数字を見て一定の計算式ではじき出される結果をもとに評価をすればいいので簡単である。ある意味で小学生の頭脳でもできる。成果主義の場合、「環境、思考、倫理性、社会性」も評価の対象となる。評価者には、その個人の「経験」から被評価者の行った「経験」を類推し、これを否定もせず肯定もしない客観的な視点に基づく評価とフィードバックをする必要がある。つまりこの評価を行うためにはある意味の技能にとどまらない全人格的は能力が求められる。実際に評価を行う課長・部長といった中間管理職に大きな能力が必要となる。仮にここに能力がないと、恣意と偏見に基づく極めて主観的な評価しか生み出すことができず、不公平感と無気力を発生させ、組織は退廃する。

====私的感情を乗せてみる
昔つとめていた某大手F社の成果主義について考えてみる。
「成果主義」といって銘打っていたが、大きな問題がいくつかあった。簡単列記する。

・実は「実績主義」だった?
成果が上がらないとその点については評価されなかった。その方法論について評価されることは皆無だった。でも「会社の方針に基づいた行動」とかも評価対象にあったので、一応「成果主義」だったようである。いずれにしてもチャンポンである。

・実は「能力主義」だった?
成果主義による評価はどのように給与に反映されているか?評価は職位の昇級に反映されており、給与を決定している基本ロジックは職級により行われている。
ここまできて思う疑問は、職位ってひとつの「資格」ではないだろうか?ということである。職位が資格だとするならば、世間で行われている成果主義というものは、その実態は能力主義であり、「成果主義」は評価の手段として用いているようである。なので実際のところは年功序列的な要素が強く、しかも評価の方法が恣意的要素が大きくなった、「恣意的年功序列」な人事制度になってしまったようである。こういうのを合成の誤謬っていうんだろうなと思う。

・評価に恣意的要素が多かった
個人的な好き好み、残業時間なども評価対象であったようである。非公式ではあるが「残業しないから評価しない」といわれたこともある。会社の方針が残業しろだったのだとすれば、成果主義に基づく正しい評価だったが、説明がなかったので当時はそんなこと想像をしたことはないですが。もっとも、発言している側も、そんなことは意識していなかった、意識することすら出来なかったと思われる。

・評価は実績/能力ではかられていた
評価の仕方は、各期のはじめに自分の目標をたて、そこに向けて努力をする。期終了の時点で目標に達しているかの達成度で評価をされる。ここにおかしな点がある。例えば期初にAさんが50、Bさんが200の目標を立てる。成果はA:100、B:150だったとすると、Bの方が成果を上げているはずなのに、Aの方が高い評価を得られるのである。つまり評価に用いられる成果は、成果/能力ということになり、自分自身で能力開発をすればするほど評価が下がっていくという現象すらも起こりうるのである。で、何が起きるか。目標を低く設定し、適当に仕事をすれば目標を達成し高評価を得るという人間が増えるのである。目標に達していても、決めの一言「おまえだったらもっとできるだろ」といわれると、呆れて口が閉まらなくなる。

・目標を期末に立てる
普通の感覚では意味がわからないです。制度がスケジュール的にもうまく回っていないのである。
上期(4ー9月)の目標を9月25日くらいに書いて、10月に評価をすると言う出来レースが繰り広げられるのである。従業員は半年の間にやってきた成果しか目標に書かないので、基本的にはみんな成果達成である。で、何を持って評価に差をつけるか?それは恣意と偏見だけである。

・評価がパイ取りゲーム
部門に与えられる評価が割合で決められてる。部員全員がめざましい成果を出したとしても、最高評価から最低評価までつけなくてはいけないのである。また中間評価の割合が多いため、上位30%の人と、下位20%の人が同じ評価になったりする。上位30%に入れる人は、相当手を抜いても下位20%には入れるので、手を抜く人も多いわけです。

・評価をすべき中間管理職の教育が間に合っていない
前述したように成果主義を運営するには中間管理職の能力が問われる。しかしF社では中間管理職になるためのパスは一般従業員として評価されたものであり、中間管理職としての長期的な視点に基づく人材育成や評価は全く皆無であった。一部の人はまっとうな評価を下すことはできるが、これは自努力によるところが大きかったようである。この状態で本来あるべき成果主義を運営することは非常に無理がある。

・中間管理職が降格しない
上記のような中間管理職にそぐわない人たちが評価を行ってしまっていたのである。彼らの多くは一般社員としては非常に能力が高かったわけであるから、仕事を戻してあげることが本人のため、彼らから評価を受ける従業員の双方のためになっただろうに。

0 件のコメント: